丹後半島・間人(たいざ)/間人ガニ(たいざがに)&地魚料理・地酒 海辺の和製オーベルジュ うまし宿 とト屋。
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丹後七姫伝説

丹後七姫

丹後七姫の横顔をご紹介いたします。
丹後は数多くの伝説や伝承に彩られていますが、なかでも、7人の美女にまつわる伝説は「丹後七姫伝説」と呼ばれて有名です。さまざまな時代を舞台とした物語が好奇心をくすぐります。

七姫ゆかりの神社や足跡を伝えるスポット、伝説の品々、関連施設など、丹後の伝説を追って、想像力を遊ばせる旅に出かけてみませんか。
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乙 姫【おとひめ】


水江浦嶋子
【京丹後七姫伝説 乙姫】
網野町は、「丹後国風土記」に伝えられる浦島太郎伝説の地です。浦島太郎は後世につけられた名前で、風土記では、水江浦嶋子(みずのえうらしまこ)となっており、この嶋子をまつる神社が網野町浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。また嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。
浦嶋神社
別名「宇良神社」ともいう。祭神は浦嶋子。浦嶋伝説の主人公。
丹後の名族、浦嶋一族の功をたたえて創建された。伊根町は日本最古の浦島伝説の地でもあり、浦島神社には、玉手箱などのゆかりの品が数多く残ります。


福島


京丹後市網野町/嶋児神社
羽衣天女【はごろもてんにょ】
【京丹後七姫伝説 羽衣伝説】
昔、比治(ひじ)の山の真奈井で天女が水浴びをしていると、老夫婦に羽衣を隠され天に帰られなくなりました。酒をつくり老夫婦と暮らしましたが、その後、家を追い出され、ほかの村に移り住みました。その胸中を伝える歌が「丹後国風土記」の逸文に残されています。

このほか、地元に伝承され、語り継がれてきたもう一つの羽衣伝説があります。それは、天女と夫婦になった猟師の家系を継ぐという家があるというもので、天女の娘の1人がまつられているとされる乙女神社では、お参りをすると美女が授かると言われています。
磯砂山・乙女神社
羽衣伝説発祥の地とされる磯砂山。山頂の展望台からは、大江山・天橋立・小天橋が一望でき、すばらしい景色が疲れを癒してくれます。乙女神社は、磯砂山のふもとにあります。天女の娘の1人がまつられているとされ、お参りすると美女が授かるといわれています。

穴穂部間人皇女【あなほべのはしひとのひめみこ】
【京丹後七姫伝説 間人皇后】
聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后は大和政権の争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に聖徳太子とともに身を寄せたと伝えられています。手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。
村人たちは恐れ多いことから、皇后の退座にちなみ読み方を「たいざ」にしたとされています。

立 岩
間人浦にあるこの岩は、厳しくそびえ立つ巨岩で伝説によれば、第31代用明天皇のお后間人(はしうど)皇后の第3皇子麿子親王がこの知の鬼退治をされた時、一夜のうちに天から降りてきてこの大岩に鬼を封じ込めたといわれています。今でも風が強く、波の高い夜などは鬼どもの号泣する声が聞こえるといわれています。柱状玄武岩の、そそり立っているところから「立岩」と呼ばれ、日本でも数少ない自然岩の一つです。



京丹後市/丹後町・間人
細川ガラシャ【ほそかわがらしゃ】
【京丹後七姫伝説 細川ガラシャ】
明智光秀の三女としてうまれた玉子(後のガラシャ)は細川忠興に嫁ぎました。本能寺の変の後、玉子は弥栄町味土野(みどの)に幽閉され、侍女の1人からキリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めるようになります。やがて洗礼を受け「ガラシャ」という名を授かりました。ガラシャは心の平安を求めながら、この山深い味土野の地で戦国の最中をすごしたのでした。
細川ガラシャ夫人隠棲地
山深い須川・味土野にある細川ガラシャ夫人の隠棲地「女城跡」。別名御殿屋敷ともいわれ、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所です。谷を挟んだ向いの丘陵は「男城跡」で、ガラシャに付き添ってきた家来達の居城の跡といわれています。
小野小町【おののこまち】




京丹後市/大宮町
【京丹後七姫伝説 小野小町】
平安時代を代表する六歌仙の1人で絶世の美女だったといわれている小野小町。妙性寺のいわれを記した緑起には、晩年に都を離れ、天橋立をめざした小町が途中、大宮町五十河(いかが)の住人、上田甚兵衛と出合い五十河を訪れ、この地で亡くなったと記されています。五十河には、小町の墓と伝えられる小町塚や、小町が開基したといわれる明性寺があり、一帯は小町公園として整備されています。

小野小町のお墓
法号を小野妙性といい、「小野妙性大姉」と刻まれている。近くに、小野小町を開基とした小野山妙性寺が建てられている。

静御前【しずかごぜん】
【京丹後七姫伝説 静御前】
網野町磯で禅師の娘として生まれたとされる静御前。父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。その後、舞う姿を源義経に見そめられ、愛妾となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

静御前
悲劇の英雄、源義経が愛した静御前を祀る神社で磯地区のはずれにあります。かつて義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという記録もあります。この手紙や多くの遺品は、天明(てんめい)2年(1782年)の大火で神社とともに全て焼失してしまいました。現在の社(やしろ)は、元のところから西へ200m離れた位置に、静御前の木像とともに祀られています。



京丹後市/網野町
川上摩須郎女【かわかみのますのいらつめ】
【京丹後七姫伝説 川上摩須郎女】
往古、丹波の国王として君臨していた丹波道主命の妻。同じ丹波国の豪族の娘として生まれ道主命の妻になり、一男三女をもうけ、その息女ヒバスヒメは垂仁天皇の后となり、景行天皇をはじめヤマト姫など四男一女をもうけました。